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前穂北尾根 前穂頂上
本格的に登山を始めたのは22歳。伯耆大山。
以来、一月に2回以上のペ−スで大山に通った時期があった。
はじめて行った北アルプス。そこで見た、前穂北尾根の屏風岩の大きさに圧倒され、岩に魅せられた。
勤労者山岳会に入り、和気の白岩で人工登攀、玉野の王子岳でフリ−クライミングに明け暮れた。

山歩きは学生時代から好きでした。近隣の山が中心で、中でも鳥取県の伯耆大山には四季通じて、よく出かけています。
社会人になって、フィールドが広がりました。勤労者山岳会の中で「登高会」に属してロッククライミングに熱中、休日にはひたすら出かけていました。
先輩と 穂高岳屏風岩に登り、次は冬の八ケ岳という時、アクシデント。
一方、岩登りのトレーニングにと入会したスポーツクラブでトライアスロンと出会い、山行はしばらくお休み。

それから約5年。
山との新しい出会いは、ウルトラマラソンから始まる。1988年のスパルタスロンへの出場のトレーニングとして、山を走り始め、大山・剣山・三嶺。石鎚山から北アルプスまでを走るようになった。オーストラリアのシドニー〜メルボルンのレースの後、山を走ることに魅力を感じ、92年・カリフォルニアのトレイルラン100マイルレースに参加し、以来、山を走ることを中心とするようになった。

カリフォルニアの山岳レースに魅せられ、毎年何度かカリフォルニアを訪れ、ヨセミテの素晴らしさにまた魅せられる。
アメリカ合衆国ヨセミテ国立公園
は、1994年6月以来4度、訪れた。
夏のヨセミテでは、かつて憧れていたエルキャピタンの下で、点のような クライマーを眺めながら 「登攀以外の目的で、この地に来るとは思わなかった」としばし嘆息。
冬のヨセミテでは、マリポサの森を訪れ、世界で最も大きな生き物 「セコイア」と静かな対面を果たすことができた。また、氷河にえぐられたヨセミテの谷の上、無人の雪原を一日スキ−で走りまわった。
ヨセミテ国立公園は、いつ訪 れても、「自然と人間はどうあるべきか」と、問いかけくる。自分の役割を考えないではおられない。
2000年には、長年の憧れ「ジョン・ミューアトレイル」を、トレイルランニング(fastpack)チャレンジ。出発前の仕事の強行軍で持病の胃潰瘍がトレイル上で爆発し、ビショップの町で治療を受けるにいたった。

OITCと楠さん
OITC(岡山アイアンマントライアスロンクラブ)と楠さん。
OITCは1983年?に結成された日本でももっとも古い部類のトライアスロンクラブです。
その時のメンバ−は第二回皆生トライアスロンに出場した大森さん、吉田さん、長谷川さん(昨年なくなりました)の三人でした。私は1985年頃に入会したような気がします。
トライアスロン草創期には大会が少なくクラブ主催の「牛窓ミニトライアスロン」も当時の「メジャ−」でした。
それが警察問題で開催が難しくなり、町とTV局主催の「第一回うしまどトライアスロン」となり、翌年の「第一回小豆島トライアスロン」に発展し、NTTサ−キットを経て現在の「小豆島オリ−ブトライアスロン」へと流れた系譜があります。
クラブとしての参画は小豆島に移ってからは無く、協会と個人ボランティアとなっています。

マスカット・ランの運営方法の違いから1996年私たちはOITCを離れました。
OITCメンバ−の楠さんとごく親しくなったのはある事故がきっかけでした。
1987年に結成された岡山県トライアスロン協会主催の始めてのイベント「トライアスロンキャンプ」のレ−スディレクタ−を私がやっていた時、彼はトップでバイクを走っていました。そしておばあちゃんを撥ねたのです。おばあちゃんの入院先、津山へ、岡山から彼の車で通いました。
そして、3年後、ある日の練習後、「胸が痛いんで病院に行ってみよ」と言ってた彼はそのまま入院。
最初から「ガン」だと告知してもらってました。化学療法を受けていた彼を見舞った時「餞別あげる」とくれた手紙・・・私たちの宝物です。
美しい奥さんと高校生と中学生の息子を遺して逝った彼がいたから「マスカット・ラン」は胸の張れるチャリティイベントになったのです。
私とトライアスロン
Hawaii Ironman/皆生トライアスロン
おおらかで、愉快な友人たちと、丸一日かけて自然の中で動きつづける「愚かで崇高な遊び」を楽しんでました。
自分の「まじめな遊び人生」を反省すると、一人の男と、熊本の人々、そして数人の亡き友人たちを、抜きには考えることはできません。
多伎スイムラン

熊本CTC


第一回やまなみウルトラマラソン後のスナップ
熊本CTC(クレイジ−トライアスロンクラブ)との出会いは私がOITCの事務局を受け持った1986年頃だったと思います。
当初はクラブの会報のやり取りと大会で会員の方と出会う程度でした。個人的には、'89年に初めてCTCのイベント「屋久島一周マラソン」に参加させていただいてからで、以来年に1〜2回熊本にお邪魔するようになりました。
'89年の九州縦断トライアルのときは、熊本市内を伴走していただき、盛大に出迎えていただき、宴会までしていただいて、本当にありがとうございました。

屋久島一周マラソン
のことは私のウルトラマラソンの中でもとても素敵な思いでになっています。
それまで登山の対象でしかなかった屋久島があれほど魅力的な島だと知ったのはこのマラソンのおかげです。まさに「洋上のアルプス」そのものでした。地球の大気の循環を間近に見、感じることができました。
準備とサポ−トに大童だったCTCの皆さんには心から感謝しております。
CTC名誉会長の永谷さん
大黒柱の安子ママ
いつも若くて元気なお二人です。理想の夫婦であります。
落ち込んだ時、悩んでる時、電話の声を聞くだけでやる気が戻ってきます。ほんとにありがとうございます。
九州脊梁トレイルランの企画実行をされ、今でも現役。


忘れ得ぬ人たち

まず、久山さん

恒例の食事会久山さんと仲間の大勢
この日始めて、久山さんが肺ガンだと知りました。
こんなに逞しくて、明るい人なのに。
知らなかったとはいえ冗談で「ガンじゃない?!」といってしまった。自分の愚かさにいまだに腹がたちます。




久山さん(左の男性)と友人達
久山さんが亡くなったのは、1993年9月22日。最愛の妻と子供二人と私たちを残して。先に逝っちゃったのです。
葬式の日に思いました「ちょうど一年前だったなぁ、楠さんが逝っちゃったのは」と。

またひとつ、心の中の小石が増えてしまった。

その仲間たちは、毎月一回集まって、さわぎます。久山さんが生きていた時のように。そして、そのとき誰かがいつも久山さんの話題を出し、ひとしきり彼を思い出すのです。


そして、藤田雄二君のこと。

写真物色中
彼も久山さんと一緒に近くのスポ−ツクラブで知り合った仲間です。
中学生の時、自分で刀の研師になると決め、夜間高校/大学に通いながら修行の傍ら、勉強とランニングに励んだ青年です。
彼の部屋の本棚にカントの原書が何冊も並んでいました。「これ読んだの?」と聞いたら笑いながら「読んでない本は持ってませんよ」と答えたのです。自分の不勉強を恥じました。腹筋のとっても強いひとで、一緒に走りながら「ここの川原でよく村上春樹さんに会うんですよ」と楽しそうに笑った顔を忘れられません。妻は東京出張の度に会っていたようです。
結婚したて、1歳の女の子を残して、トレッドミルの上から逝っちゃうなんて、自然の塊のような彼にはちょっと不似合いかもね。


熊本CTC 森上さんのこと

 
森上さんです。
可愛く笑ってますが、元日本柔道重量級での実力者でした。
腕利き刑事から、今は特養老人ホ−ムの元副理事長。
こういった施設の現状と日本の抱える多くの問題に真っ向からチャレンジして行こうというエネルギ-。維持して行くのは大変でしょうが頑張ってください。私たちも何かの役に立ちたいと思っています。

CTC屋久島一周マラソンでお世話になりました(仕掛人でした)。
今後の生き方を考える方向を見つけた気がしました。

今頃、天国で何をしておられますか?