"La GRANDE COURSE de BRETAGNE"
1.はじめに

1992年はめまぐるしい年でした。
5月フランス、6月カリフォルニア、8月ピースラン、9月ヨーロッパ、そして親友が9月留守中に亡くなりました。

その年は第11回Sydney〜Merborne間レ−スが行われる予定になっており、私は三度目の参加を予定していました。しかし、そのレ−スのディレクタ−、チャーリー・リンさんから突然の手紙、「スポンサー撤退のため開催無期延期」という知らせが入りました。
3度目の正直(完走)を考えていた私は、呆然自失、目標を失い泣きました。
何もやる気が起きない、そんなある日。突然、フランスからfaxが入りました。13日連続のマラソン "La Grande course de Bretagne" というレースの案内でした。行場のない気持ちでいた、私には否も応もありません。飛びつきました。
北フランスの西部、ブリターニュ地方を巡る13日間のマラソン。距離は約500kmだけど、そんなことはどうでもよかったのです。ただ、長く走るレースに参加していたかったのです。

 しかし、ここで距離一辺倒に傾きかけていた自分のランニング観をひっくり返すような素晴らしい経験をし、豊かな優しい人々と会うことができました。
そして、様々な国から集まったいろいろな階層の人々と、裸で付き合い、語り合い、反目しあった13日の体験はとても貴重なものでした。
 
 レ−スは世界遺産の「モン・サン・ミシェル島(修道院)」という陸繋島から始まり、一日に
35kmから50km走る13日連続のステージレースでした。毎日の宿は基本的に、ホームステイ。あるいは学校の体育館、廃校の寄宿舎という不思議なレースでした。

 朝、起きるとオムレツ・バケット・ポテトにカフェ・オ・レ。食べると、すぐ村の教会の広場に移動します。そこでは子供達と村人がいっぱい集まってランナーを待っています。
まるで大レースのようにステージでランナーを紹介し、村の子供達と共に少し走り、そして
音楽がなると、レースが始まります。スタ−トすれば、次の村まで賞金のかかった容赦の
ないレースです。
 参加していたのは、ポーランド・ロシア・チェコ・アメリカ・フランス・カナダ・イギリス・ハンガリーほかの国々のランナー約20人でした。

日程と距離は"12 etapes - 500kms - 42kms par etape"
つまり"12ステ−ジ、500km、42km/ステ−ジ"と銘うっていました。

2:パリの下町のぼろアパ−トにて

往復6万円の格安チケットで,パリのオルリー空港に着いたのは,92年5月 14日の夕暮れでした。迎えに来てくれるというJaque さんを待っていると, ひどいフランス語訛りの英語で声をかけてくれたのは青年風おじさん。両端の とんぎった黒ブチメガネをかけ,長い髪がそのメガネの前にはりついている。 少し神経質そうで,昔の映画「自転車泥棒」だったかに出てくる、ちょっと くらい郵便配達夫という風情の彼にくっついて,バス〜地下鉄と乗り継ぐ。 パリのど真ん中,バスチーユの近くで降りる。いかにもパリの下町という 町並みを,彼のアパートへと向かう。本日の泊まりは彼の部屋。おんぼろビル の異様に大きな扉を入ると,音の出る階段。
「静かに上がらへんと,大家に怒られるんや。」と言うので静かに上がる。
ガチャガチャとせわしなく鍵穴に鍵をつっこみ部屋に入ると,靴で新聞と雑誌 の間に道を作りながら奥へ案内してくれた。まるで,独身時代の私の部屋。
驚くのを期待していたのか,笑っている私にしきりに言い訳しているようだ った。「どこで寝るのか」と聞くと,ソファの本をどけて「ベッド完成」。

持参の寝袋に入って,ビールを飲みながら少し話す。彼の名は,Jaque de Rocheffile(?),岩葉のジャックさんと言うらしい。レース・ウォーカーで, 部屋にはいくつかのカップとメダルがかかっていた。日本でいう国体(のような もの)に出たいと考えているという。国鉄に勤めていて,このレースの主催 スタッフの一人だそうだ。

翌朝,目が覚めて外へ一人でジョギングに出た。途中の公園でペタンクをや っている老人と若者。走るより,歩いたり話をしている方が似合う街並みだ。
途中,カフェで何か食べようと入ったが店員にさっぱり英語が通じない。普通 の大人は,たいてい英語を知らないし,知っていても話さない,フランス語を 愛しているからだというのだが,どうも理解に苦む。
言葉の問題が心に重くのしかかって彼の部屋に戻ると,女性がいる。このレ ースに参加するランナーらしい。ジャックの話によると,ボグミラというポー ランドのママさんで,子供を置いてバカンスに来たという。自己紹介をしよう としたが,彼女は英語は簡単な単語しかわからないようだ。笑顔と身振りで話 していると,大勢の男達が入ってきた。一目で東ヨーロッパの人達とわかる。 ハンガリーの髭男は『ジュマンジ』から飛び出してきた時の主人公のような長 髪ヒゲ面の短パン姿で,チェコの大男は顔がデカイ。ほか,みな大小の荷物を 担いで, だぶだぶのウィンドブレーカーの上下姿。何か思わず息をのみ,「き たねーなー,貧しそうだなー」という偏見の眼で見てしまった。彼らも,フラ ンス語も英語も全くダメな様子。
ジャックは午前中は仕事なので,皆で市内観光でも行ったら,と言って出掛
けてしまう。ハンガリー・チェコ・ポーランドと揃っても,話はあまり通じな いようで,不安でどうしようもない。とりあえず,地図を見ながらルーブル美 術館やノートルダム寺院などを見にいこうと外にでる。彼らはどうも歩いてい く気らしく,自分も歩く。わけのわからない言葉に囲まれて,「とんでもねー なー」と不安がどんどん大きくなる。

写真を撮ったり,いろいろと見て歩いて,おなかがすいて,どこかで何かを 食べようと思っても, 彼らはまったく「何かを買うとか,店に入る」というこ とに関心が無い様子。自分だけでやるさ,とキヨスクでメガネ型の揚げパンと レモネードを買って食べていると,彼らはポケットからリンゴを取り出して食 べだす。
「何か食べに店に入ろうぜ」とか「電車かタクシーで帰ろうぜ」と思うのは, どうも自分だけのようで,何となく恥ずかしいような,腹立たしいような気分。
物資の豊かな日本から来た自分には,「貧しい国」と彼らに偏見を持って いるようだ。それは部屋に帰って,陽気なアメリカ人を見て「ほっとした」時、 ふと感じた。
「あっ,言葉が来た,仲間が来た」という感じ。先進国と社会主義国,豊か と貧しさという構図を頭にえがいていた自分に後から気がついた。貧しいはず の彼らはバカンスを楽しみに,フランスにやって来ていた。2日かけてバスと 列車を乗り継ぎ,好きなランニングと観光を兼ねて。家族も置いて。スゴイと いうか,どうしてというか・・・よく考えると自分もそうなのだが・・・。
陽気なアメリカ兵は,サハラ砂漠を走る自分の写真(雑誌)を見せて,そこ では日本人達とずっと一緒だったなどと,どんどん話しかけてきてくれて,心 が少しずつ軽くなっていく気がした。彼の名は,スタンといった。
サハラ・マラソン(marathon des sabble)を5年続けて走っているという。 陽気でお喋りで,子供大好き青年(でも私と同世代)で,英語のわからない 彼らに向かって,英語のジョークをとばし機関銃のようにしゃべり続けている。
その賑やかさがうれしくなった。

ジャックが帰ってきて,全員そろってモンパルナス駅の地下鉄に向かう。パ リで見ても,異様な集団だっただろう。

3:異風の行列

ジャックが帰ってきて,全員そろってモンパルナス駅の地下鉄に向かう。
 パリで見ても、異様な集団だっただろう。 ごたまぜの珍行列が地下鉄の駅を行く、ホームを進む、列車の中でたむろする。男性女性、Tシャツ短パンで木の枝を持った髭もじゃの怪人、ウィンドブレーカーの大男、鉢巻きをしたアメリカ人、黒髭の東洋人、行列を率いるちょっと暗い黒ぶち眼鏡のフランス人。

モンパルナスの駅に着くまで、わけのわからない言葉の渦に揉まれっぱなしで、少々疲れ気味だった。
綺麗なガラス張りのモンパルナス駅の2階ホーム。大きなザックに腰を降ろした小柄な金髪の美人がいた。黒髪でショートカットのスリムなサングラス美人と話をしながら、こちらに手を振っている。カナダからのランナー、ジョー・ウェルスと、レースの主催者の妻マリーさん。 良く見ると傍に小太りで若禿げのフランス人。それが主催者のフランソワ・フォールでした。何度かFAXでやり取りした相手である。
 肩をたたかれて後ろを振り向くと東洋系の顔がある。「久しぶりやね、元気やった?」という彼。そうだ。88年にギリシアのスパルタスロンというマラソンに参加した時、ゴ−ルの町・スパルタで結婚式を挙げた時、立ち会ってくれた各国のランナーの一人で、カナダの教師エスモンド・マーさんだ。大声で抱き合って再開を喜び、その時の様子を彼が皆に説明してくれた。
フランソワも奥さんも、ハンガリー人の一部も、その模様はフランスのチャンネル2経由でヨーロッパ中に放送されたという。私たちの結婚式は、どうもほとんどの人が見たらしい。

そしてまた、背の高いアメリカ人の二人がやって来た。広くて明るく天井のある始発駅。TGVをバックに記念写真、パチッ。
レンヌへ。

TGVの中は静かだ。明るく広く普通車でも席と席の間にテーブルがある。
確かに、新幹線よりずうっと快適だ。席は、旧西側(仏米加日)と東欧組に分かれて座った、自然にそうなっていた。当たり前か。

Mont Saint-Michel修道院や!


レンヌに到着し、乗用車に分乗して宿舎へと向かう。時差ぼけのせいか眠かった。
「モンサンミッシェルや!」という声に目を覚まし、外を見ると・・延々と続く畑とポプラ並木の向こうに、突然という感じで碗型の岩山がある。

驚くことにその岩山全体が城のような教会だ。昔、遠浅の海に浮かぶ島に修道院ができ、壁が築かれ、中に街ができたという。かつては干潮のときにだけ島と陸が砂州で繋がったというが、今は、広く太い道路で結ばれている。
車はそちらに寄らず、近くの村の(学校の)寄宿舎に着いた。そこには、既に別の東欧グループが来ていた。約2000kmを一晩で来たという。サーブに5人乗ってである(!)。ウルトラドライバーがいる。
チェコ・スロバキアの二人と同室の部屋割りとなった。英語はやはりぜんぜんダメ。荷物の整理をしていると私のカメラと時計を珍しそうにチェックしている。自分にとっては当たり前の物でも、環境の違う彼らには手に入れられぬ物なのだ。彼らの荷物の大きさは私の半分だった。私の方にはいらない物が、いっぱい詰まっている。不安な証拠だ。
湯の出ないシャワーを浴び、寒い思いで夕食を待つ。日が傾いた大きな庭で近所の子供達が楽しそうに遊んでいた。

夕食は村長さんの主催レセプション兼パーティだった。西陽のいっぱい入る公民館にいろんな人が集まっている。ほとんどがお百姓さん。百姓の自分には分かるのです。ここでも、英語が通じない。
村長の挨拶のあと、私達のサーカスの首領・フランソワのスピーチが始まる。

長い。村長のより長い。余り上手とは言えない英語とフランス語のバイで話すもんだから、2倍長いぞ、きっと。
食事は、バケット、チキン、チーズ、豆にぶどう酒。質素だ。ごく普通の食事なんだと思う。けっして豪華にしてはいない。が、充実している気がした。「地についた食事」というものがあるなら、きっとこういうことを言うのだと思う。

 やっと、ランナーの紹介だ。エリートからバカンス旅行者までいろいろだ。
ハンガリーのエリノはスパルタスロン245kmを27時間で走っている。背の高いトムはアメリカの24時間レースのチャンピオン。体格のいいジョーはファースト・アイアンマンの一人で退役ジェネラルで会社社長、おまけに「アルカトラスからの脱出」というトライアスロンの主催者だ。スタンはサハラのベテランでベルリンの駐留軍にいる。ハンサムで背の高いハンガリアン、アンドレシュはブタペスト大学の医学生。ミクロシュは一晩で2000kmを走る長距離ドライバー。私は広島〜長崎ピースランの主催者で日本で有名なウルトラランナーだ、と紹介された。フランソワはいい加減なやつだ、日本のことなどしらんくせに。
 隣りのスタンの話だと、髭ぼうぼうのハンガリー人・アッティラ(!) は田舎に3人の妻がいる、という。彼の話も、むちゃくちゃだ。でも、アッティラは何故いつも木の枝を持っているんだろう。